CHARACTER ARCHIVE / 逸伝篇
丁原
何進に招かれて洛陽へ上り、董卓の手引きで呂布に殺された并州刺史
丁原は、寒門の出身で、騎射に優れた武人です。并州刺史・騎都尉として呂布を属僚に取り立て、のち執金吾になりました。霊帝の死後、何進に洛陽へ呼ばれましたが、董卓の手引きで呂布に殺され、兵は董卓軍に吸収されました。本人の言葉や考えを伝える記録は少なく、ここでは記録の少なさを踏まえた暫定の値を置いています。人物像や事績を詳しく記した史料が見つかれば、見直す余地があります。
寒門の出身で、騎射に優れた武人。并州刺史・騎都尉として呂布を取り立て、のち執金吾となった。霊帝の死後、何進に呼ばれて洛陽へ上り、孟津で兵に火を放たせた。のち董卓の手引きで呂布に殺され、兵は董卓に吸収された。
THE WAY OF LIFE
丁原の生き方
自ら先頭に立って賊を追ったと伝わる。武勇を前に出す人物像ですが、記録は短いものです。
呂布を取り立てながら、その呂布に殺された。値は暫定のものです。
持ち味と、その裏側
騎射の腕と、賊を追うときに先頭に立つ武勇。一方で、人柄は粗略で、官吏としての能力は低かったとされ、記録が少ないため、持ち味は限られた範囲でしか分かりません。
IN THE CHRONICLES
史実・物語の歩み(概略)
生年未詳〜中平6年(189年)
寒門の出身。官歴は、南県の官吏から并州刺史・騎都尉、執金吾。字や本貫、生年は、日本語版Wikipediaに記載がない。
- 寒門の出身で、人柄は粗略で、官吏としての能力は低かったとされる。一方で武勇に優れ、騎射を得意とし、賊を追うときは先頭に立ったという。
- 南県の官吏を経て、并州刺史と騎都尉を務めた。この時期に、呂布を属僚に取り立てた。のち執金吾となった。
- 霊帝の死後、宦官の誅殺を図る何進は、董卓や橋瑁とともに、丁原を洛陽へ呼び寄せた。
- 何進は、偽の命令で丁原に孟津で兵を放たせた。黒山伯の仕業として、何太后に宦官の誅殺を迫るためだった。孟津の火は洛陽城内にも届いたが、宦官は排除されなかった。
- 何進と宦官勢力が相次いで排除されたあと、丁原は董卓の手引きで、呂布に殺された。配下の兵は呂布に従い、董卓軍に吸収された。董卓軍は、当初は三千人ほどだったとされる。
- 『三国志演義』などでは、丁原を荊州刺史とする作品が多い。演義の丁原は、董卓の廃立計画に反発する気骨の士で、呂布の武勇で董卓を苦しめるが、李粛にそそのかされた呂布に殺される。正史の記録とは別の脚色である。
主な出典
『三国志』魏書 呂布伝・董卓伝、日本語版Wikipediaの記述
SOUL ALIGNMENT
人物像の分類:真なる中立
規律を示す記録が乏しいため、中間に置いています。
記録が乏しく、動機を一方に定められないため、中間に置いています。
このページの性格・人物像と生き方の文章は、史実や『三国志演義』の記述そのものではなく、本サイト独自の8軸と人物タイプに基づく読み物です。